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【遊女・遊客に就いて−その15】 [遊女の諸芸] 元禄六年(1693)に幕府が大名・旗本の吉原への出入りを禁止しました。創業以来太夫・格子と呼ばれる 高級遊女は、大名・大旗本を相手としていましたが、特に太夫と呼ばれる最高峰の遊女が身に付けた諸芸は 「貴人高位の息女に恥ず」と云われるもので、遊戯と名付くものは当然として、三曲に堪能で、その弾く 音色は松風の響きにて、三味線はもとより妙手であるが弾かぬ風をなし、古き和歌を多数暗記し、 「源氏物語」「枕草子」を床の間に飾り、墨つき美しき文を書き、俳諧・和歌・茶道・香道・華道の 奥義を極め、生半可な学者も及ばぬ知識を持ち、女性としては最高の教養を備え、その教養の高さ品格に 於いては、上流武家の女子にて真似る者があったと言われています。また太夫に次ぐ格子遊女もこれに 準じた教養を身に付けていました。 元禄14年(1701)刊行の「けいせい色三味線」では、元禄以前の遊女は客を遊ばせる技術が優れていた ことを次のように記しています。 『昔の女郎は、何心もなくかたちをうるはしくつくるを専にして叶わぬ声にて歌をうたひ、 三筋の糸さへならせば、太夫よばれて其日男上戸なれば、酒おもしろく汲かはし、又は上 るりずきなれば、いやながら、たびたび聞なれし十二段の忍びの所、永閑節のおかしげな るを、折り折りに三味線引かけ、「是はこまかに御語りなさるる」などそやしける。』元禄に入り吉原遊びの主体が台頭してきた町人層に変わり、取り巻きの文化人を侍らせての新興豪商達の 金に飽かしての遊びに転じると、吉原自体は活況を呈しましたが、大名相手として育成され、大名の 姫君以上の高尚な諸芸を身に付けた太夫の出場は減少し、太夫自体も減少して、享保初期に大三浦屋の 高尾・薄雲、山口屋の音羽・白糸・初菊、三浦屋の三浦の六名を最上期として減じ、宝暦年間(1751〜63) に太夫・格子・揚屋が消滅しますと、それまで中級遊女であった散茶が細分化して昼三から部屋持遊女と なって太夫・格子に変わりました。 宝暦以後吉原遊びも全て安直を旨として、前期の揚屋や茶屋での遊びは影を潜め、肉欲を前面に押し出して の遊びに転じたと言われていますが、昼三遊女を抱える大籬(高級遊女屋)での遊びは、遊女の持つ諸芸から 推して遊客も相方の持つ芸を楽しんでの遊興であったように見受けられます。 安永七年(1778)春刊行の田水金魚撰「十八大通百手枕」に拠りますと、当時の高級遊女達は俳諧・琴・ 茶の湯・香道・鼓尺八・和歌・漢詩・占い・墨絵・篳篥・蹴鞠・華道・横笛・半太夫節様々な芸を身に 付けていた事が判ります。 『[むすこ]モシよし原に俳諧や琴の上手なけいせいはなんといふ名でござりましたね[先] 先、俳諧の上手はえび屋の玉菊。七絃の弾たは中近江の半太夫。二人ともうけ出された が、おしひものを上がたや田舎へやってしまった事さ。今で茶の湯は丁子やのめいざん。 香事なら蔦屋の道春、松がねやのあげ巻は鼓を能打、靜玉屋の静は尺八に妙あり。角金 やの浮舟は歌をよくよみ、大かなやの白妙は琴の名人。花扇がからよう、三ッあやが卜、 また家田屋の此春はひちりきをよく吹、よつめ屋のかつ山は墨絵に妙あり。松の井が詩 作、しらゆふが鞠、又三津花が活花は能あしたの眼をさまし、彼高村が笛曲は暗に夕べ の小男鹿をあつむ。かようの芸能にいたっては、中々岡場所のおよぶ所でござらぬ』また遊女の書道について安永十年(1781)南陀伽紫蘭作洒落本「舌講油通汚」 [岩波文庫版・砂払所載]では、 『近年は猫もしゃくしも、まにあひの松花堂をやらかして書ちらかすもんだから、紅毛もじ の素読をするようで、むてへよめねへのがございやす。また鶴屋の内などにはぐつとひねつて、松花堂をふる めかしいとかなんとかいふてうしで、御家流をかく女郎がありやす』と記しています。 天明八年(1788)正月山東京伝作「傾城?」[岩波文庫版・砂払所載] では、当時全盛を風靡した昼三遊女の諸芸に付いて『松葉屋瀬川 当時七代目の名跡云々。書安親門人、 歌学二条家、香、琴、茶遠州。扇屋花扇当時四代目書東江流。』と書いています。
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