●邦楽に描かれた吉原(三十六)

【遊女・遊客に就いて−その13】


[安永・天明年間(1772〜89)U]
 明和・安政年間に入ると俄かに吉原を題材とした遊里文学としての洒落本が世上に数多く出現して 来ました。その代表的な作家は山東京伝でした。彼は浮世絵師北尾政演としても名を成し、また吉原に 遊ぶのを好んで二度の結婚も下級女郎を妻とした人物で、実体験として吉原を熟知していました。彼の書く 洒落本は吉原や岡場所の実際の遊女を物語の中心にて書かれ、そこには逃れられない遊女の境涯に深い理解 と同情を示し、人間性に対する深い愛情を持って、事実に基づいた写実的な描写によって遊里の人間の哀歓を 描いていました。
 山東京伝著天明七年刊行の「吉原楊枝」には、当時の吉原の遊客に付いて次のように記しています。
『呼び出し昼三の客は国家の留守居、うとくな る旅人、大商人の檀那、大名の留守居のるい 也、平の昼三の客は有徳なる町人のむすこ、 若との様、御用たし町人の檀那のるい也、一 歩の座敷持は、きめずきん、おはたの二男、 又は店衆のるいなり、大見世の部屋持の客は、 家中もの又は高き能き山の手のるいなり』
上記から見て江戸文化の発信地となった吉原に手高級遊女を揚げて遊ぶ者達の多くは、接待族・社用族か 富裕な大商人達で、多くの取り巻きを従えての遊びであった。当然その取り巻きには世間にて文化人と 呼ばれる人達であった。前時代とは比べ安直になった吉原遊びと言へども、庶民層の手の届かない遊びであった。  常磐津「勢獅子」では 最高級の呼び出し昼三を相手とする大尽遊びの様を、
『それ来た やれ来た たらふく大尽 新造禿 も 御手を引船 にこつく遣手に ざざめく 芸子もお髭のチリチツどんどん太鼓が 唄い 囃せや 大黒頭巾で撒き出す惣花 さんさん 盃廻る お床もしっぽりと おしげりなんし え そのあとは どうでもなんなとちょっく らちょっと やらしゃんせ しどもなや』
《本名題「勢獅子劇場花?」嘉永4年(1851)4月江戸中村座狂言「世界花小栗外伝の二番目大切所作事。 作詞三世瀬川如皐・作曲四世岸澤式佐。》
と描かれ、引手茶屋より花魁・新造・禿達に手お引かれ、お祝儀たっぷりの遣手や男女の芸者に取巻かれ 遊女屋に送られた大尽が、遊女屋の座敷で惣花を付けて飲めや唄えのどんちゃん騒ぎ。やがて寝屋の仕度も 出来、一座のしっぽり濡れて下さいよの声に送られお床入り。
「おしげりなんしえ」という吉原の廓言葉は、遊女が他の遊女とその相方の客に対しての挨拶言葉で、 その基は古今集の『神垣の みむろの山の榊葉は 神のみ前に繁りあひにけり』から取られ、繁茂する枝葉が 重なり様から、男女が閨房にて肌を密着して重なり、激しく情けを交わす様を表現したものです。
 一見華やかに見られる吉原遊びの中心である高級遊女は、売り物として豪華な衣装・装身具を身に付け 接待していたかに思われますが、「嬉遊笑覧」に拠れば「安永天明頃より羽二重さやなどは絶えて用いず、 錦繍の如き美服を着る事になりぬれども、毎日同じものを着て着替は一ッも持たざるなり、煙草入れなども 高価の物を用ふれ共、人に呑することなし。時勢に依って賎しくなれり」と、その裏側は意外に慎ましく、 豪華な衣装も一式しか持たなくとも日夜変わる客には判らないとの理由ゆえか、 見た目と実際との落差を感じさせられる記載があります。
 
[寛政年間(1789〜99)以降幕末まで]
 田沼意次の失脚に伴い老中首座となった松平定信は、田沼政治の根幹を成していた現実に即した商業資本重 点政策を改め、時代の趨勢に逆行する米穀主体の農業政策重点を打出し、商業資本への抑圧政策を執りました。 改革の手始めの寛政元年九月十八日には、幕府の根幹を成す旗本御家人の困窮を助ける政策として札差に対し 出した棄損令です。この棄損令は六年以前の旗本御家人の借金を放棄させ、以後の借金は年賦にて返済させると 云う棄損令を公布しました。これにより我が世の春を謳歌してきた札差達は一夜にして118万7800両を失い、 倒産する者も多々ありました。しかし、この公布は旗本御家人に喝采を以って受け入れら、一時的には 旗本御家人を救った様に見えましたが、彼らの禄米を換金することを一手に引き受けている札差達の 強い反発を買い、元本の清算無くしては新規借銭には応じないとの対抗策により糧道を絶たれた旗本御家人の 生活はより困窮の度を深めていった。
 又、奢侈品の売買禁止、風俗改正に名を借りた出版印刷物の取締強化、洒落本の出版禁止、岡場所の弾圧など が打出され、消費は一気に冷え、江戸の町は火の消えたような状況を示した。当然奢侈を旨とする吉原は、 最大の得意先であった札差始め大町人達が幕府の目を意識して、出入りを止めたので火の消えた状況を呈し、 以後衰亡の一途を辿って行きました。
 寛政年間以降幕末まで、吉原を襲った度重なる火災は、山谷付近や深川などにての仮宅営業を余儀なくされ、 豪華絢爛を標榜した江戸吉原遊廓とは格段に落ちた仮宅では、昼三の高級遊女との遊びも、江戸各所に散在する 岡場所での遊びと余り変わらぬ安直な遊びとなったので、遊客には一面喜ばれましたが、 吉原が堅持した社交場的な優雅な遊びは影を潜め、衰退の度を深めていった。
この度重なる仮宅での営業は、営業地指定された処が撤収後も淫風が収まらず、その地が吉原を侵害する岡場所に 転じ繁盛すると云う逆効果をも生んでいました。その好例として一躍脚光を浴びたのが「根津」「深川」「品川」 などで、遊廓に見間違う造りの店が増えて吉原化し、世の好き人は高い揚げ代を出して吉原に遊ばなくとも、 身近に其れに近い遊びが出来る所に通うことになり、益々繁盛していきました。


←前号へ ↑最初へ →次号へ


Topページへ