●邦楽に描かれた吉原(二十九)

【遊女・遊客に就いて−その6】


[享保年間〜寛延年間(1716〜50) ]

 五代将軍綱吉と生母桂昌院による奢侈と度重なる寺院建設やお犬小屋の維持などにより 幕府財政は底を付き、その解消の為に八代将軍吉宗による奢侈禁止を中心とする 「享保の改革」が実施され、新興商人による豪奢な遊びは幕府を憚り蔭を潜め、吉原も 一つの節目とも云える時期を迎えていました。
 じかし、奢侈禁止をうたった享保改革の最中である享保年間の初期の新吉原遊廓は、 最盛期を迎えていました。享保五年刊行の「吉原丸鑑」によると、享保初年(1716)の 吉原には三千余人の遊女がおり、同五年には太夫も揚屋の健在で、揚屋の六美人と 呼ばれる極々上の太夫がいました。京町三浦屋四郎左衛門内高尾・薄雲、江戸町山口屋 七郎右衛門内音羽・白糸・初菊、京町三浦屋甚左衛門内三浦の六人です。この六美人は 美貌だけではなく、女性一般の教養と遊芸に秀でており、最高な気品を競った彼女達に より吉原は華やかな、品位のある情緒をかもしだし、新吉原の最盛期が形成されて いたと、記されています。
 しかし、享保末年頃から元文年間になるとさしもの新吉原も衰退期に入り、新吉原 での揚屋を用いた豪華な遊びが激減し、揚屋自体もも減少し、遊びの質が変化して いたことを「喜遊笑覧」では次ぎの様に記しています。
『元文頃まで太夫有りしは三浦屋三軒と玉屋のみなり。徒流云元文五年頃迄揚屋五軒あり、 尤も揚屋町にはなし、新町(京町二丁目なれどもいつの頃よりか新町といふ)海老屋治右 衛門、尾張屋清十郎、橘屋五郎左衛門、若狭屋庄三郎、京町和泉屋清六其後揚屋とも皆破 壊して尾張屋清十郎のみ揚屋町へ転宅し栄えたり』
 この時代の新吉原は、前の元禄期の奈良茂・紀文を代表とする豪商達が、金に飽かし贅を 尽くした遊びとは趣を一変し、さばけた中に人情味を持ち、且つ垢抜けた江戸っ子好みの 通や粋を主にした風流な遊びへと代わり、サロン的な遊びの場になっていった。
 その変化の背景としては権威のみを保持するが経済的には実体の無い武家が、次第にその 権威を失墜しその生活実態も町人化して来たことと、反面貨幣経済・流通経済を一手に 握った町人階層が経済力を背景に社会的基盤を築き、武家文化の模倣ではない、独自な 様々な町人文化が芽生え始めきたからに外ならず、華麗な元禄文化の一翼を担って来た 吉原自体にも変化の兆しが見られ、経済的に豊かな楼主や茶屋の主人の間に風流者が出て、 様々な階層の客を吉原に足を向けさせる為に玉菊灯篭・吉原俄など様々な趣向を凝らして 廓を風雅に仕立て上げ、江戸文化の一方の発信地としての基盤を作るようになったことです。
 確かにこの時代は邦楽の世界でも、上方より流入した上方文化を吸収して純粋な江戸風な 邦楽となった半太夫節浄瑠璃や河東節などが世上に現れ、また、上方よりは義太夫浄瑠璃や 豊後節浄瑠璃が進出し、特に豊後節の流行は江戸に存在した各種の浄瑠璃を駆逐し、 彼らの服装・装飾品・髷などが庶民生活の中に取り入れられ、様々な社会風潮を引き起 こしていました。

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