●邦楽に描かれた吉原(二十八)

【遊女・遊客に就いて−その5】


[延宝〜元禄(1673〜1703)V ]

 この時代の吉原は、遊女を抱える遊女屋の格式、また遊女の階級も幾つかのランクに 細分されていました。
 元禄14年(1701)刊行の「けいせい色三味線」所載の「新吉原遊女名寄」によると、 遊女の階級と揚代、遊女の数が下記のように書かれています。
・太夫  [片遊び三分]  5名
・太夫格子[片遊び二分] 99名 (以上高級遊女)
・散茶  [夜のみ一分]493名
・埋茶  [夜のみ一分]280名 (以上中級遊女)
・五寸局 [銀五匁]  426名
・三寸局 [銀三匁]   44名 (以上下級遊女)
・並局  [一切銭百文]400余名(最下級遊女)
・切見世女郎
と分れ、遊女の総数は1,750名余でした。
(元禄13年頃の金銀交換率 金一両=銀四十七〜八匁、、金一分=十二匁)
 揚屋は揚屋町に一括され、北側に六軒、南側に八軒の合計十四軒有って、太夫・太夫格子 遊女百四人との遊びは必ず茶屋を通し、この揚屋にて遊ぶ定めになっていました。
 又、遊女屋も見世の格式により、抱える遊女の格も下記のように細分されていました。
1.太夫・太夫格子のみを抱える遊女屋      
  二軒(京町三浦屋・新町巴屋)
2.太夫・太夫格子・埋茶を抱える遊女屋   
  一軒(角町茗荷屋)
3.太夫格子のみを抱える遊女屋       
  四軒(新町長崎屋・角町藤屋・江戸町山口・江戸町二丁目車屋)
以上の七軒が大見世です。
4.散茶のみを抱える遊女屋
  三十四軒(一軒当ての抱え遊女10〜20人)
  江戸町二丁目・角町に集中していた。
5.埋茶のみを抱える遊女屋
  二十九軒(抱え遊女5〜23人)
  角町・新町(京町二町目)に集中。
以上の六十三軒が中見世です。
6.五寸局のみを抱える遊女屋
  七十二軒(一軒当て抱え遊女所2〜15人)
  江戸町一丁目・京町・角町に集中。 
7.三寸局のみを抱える遊女屋
  九軒(一軒当て抱え遊女4〜8人)
  伏見町に集中。
以上の八十一軒が小見世です。 
8.並局
 (河岸の切見世の女郎にて名寄せなし)
 同じく「けいせい色三味線」第三の項に、これら各階層の遊女に対する遊客側の 見方を次ぎのように記しています。 
『細元手の人、太夫格子におよばぬ恋をせふよりは、気骨のおれぬ散茶にたはふれ、 又は近き比の仕出し、うめ茶で咽のかはきをやめ、当座の気散じ、それから五寸三寸 新町河岸の柿暖簾は、定て百宛ころりとねて咄した所、さらに生男懐て寝るようには あらず。内衣(注:腰巻)も絹物して、はし切の鼻紙口すぼめて物いふ風情、末々に ても、御町の仕出しは格別也。』
 また、大手商家の手代達の間で行われた吉原遊びの手法として、岡場所や吉原での 安遊びをせず、無け無しの小遣の有効利用法として高級遊女との一夜の遊びを目的として、
『手代共十人斗寄合、命の洗濯講といふをはじめ、先あたまに一人前より、金一歩(分)宛 出し、是をもとでてとして、毎月壱人に三匁づつ出し、格子女郎を廻り番に、一人宛買て 慰ける。是よりして、あたま掛を、世間で枕掛と申は、此因縁と承る。』
と、遊興費工面のための苦肉の策として無尽をしていたことが同書に書かれています。  新吉原も開設以来三十数年を経へ、幕府の「大名諸士の吉原遊興の自粛」の通達により 大名・旗本・高級陪臣達の吉原通いは遠のき、取って替わって新興成金の町人達が主流を 占めると、客の取巻き達が座持ちの芸を披露する故に、次第に高級遊女達の質も次第に 低下し、客の好みに応対出来る遊芸が無くとも済む様になっている様を、昔を偲ぶ風にて 同書に下記のように記しています。
『昔の女郎は、何心もなくかたちをうるはしくつくるを専にして叶わぬ声にて歌をうたひ、 三筋の糸さへならせば、太夫よばれて其日男上戸なれば、酒おもしろく汲かはし、又は上 るりずきなれば、いやながら、たびたび聞なれし十二段の忍びの所、永閑節のおかしげな るを、折り折りに三味線引かけ、「是はこまかに御語りなさるる」などそやしける。』

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