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【遊女・遊客に就いて−その4】 [延宝〜元禄(1673〜1703)U] この頃までの新吉原遊廓は江戸唯一の遊興の場として、大名や高級旗本達も堂々と 通い太夫・格子の高級遊女を相手に遊び、日頃の憂さを晴らしていた。しかし、貨幣 経済への移行により、米穀以外に市場性の高い国産商品を持たない多くの藩は、奢侈な 風潮の蔓延と参勤交代による二重生活による出費により、財政は逼迫の度を増して いった。まして金が全ての遊女町での遊興は、物価に左右されない固定された知行に しか収入の当てが無く、又、米の流通価格にて収入が不安定な武家階級が遊興するには、 正に貴重な財産を溝に捨てるに等しい「悪所」であった。 この様な状況下にて幕府では、元禄六年(1693)十一月九日に 「諸大名諸士を戒め遊女町に遊ぶを慎ましむ」[徳川実紀] との御触を出したので、 以後大名旗本などの上客武家の遊びは影を潜めるようになり、此れに変り新興の上層 町人層が遊ぶ遊興の場と変じ、新吉原遊廓の新しい主人となりました。元禄も半ば 以降になると、貨幣経済を一手に握った特権町人(四代目奈良屋茂左衛門など)や 幕府御用達を望む上層町人が利権を得るために関係部署の役人を接待する為の接待の 場となり、また新興豪商(紀の国屋文左衛門など)の豪奢な遊びの場となった。彼ら の周りには世に文化人と称される様々なジャンルの者達が寄り集まり、華やかな社交の 場となり吉原文化(廓文化)形成に力を貸していました。 この頃の吉原の風潮を曳尾庵著「我衣」 [中央公論社版・燕石十種第一巻所収]では、 『元禄宝永の頃の悪所の繁栄は、昼は極楽の如く夜は竜宮界の如しといへり。諸国の珍 味先此地を最上とはこび、異香匂い家々に満つ。数の遊妓伽陵の袖をひるかえす。遊 客は他人百金をつかいやせず、我は千金ついやしたりと、多くついやすを此里のきぼ とす』と、新興財閥による大尽遊びに対処する為に様々な高級食材が膳を飾り、遊女達も 贅を尽くして輸入品の香料を使い、身には豪華な衣裳を付け、あたかも極楽や竜宮城 であるかの如き様で、全てが金の力無くしては適わぬ様子を記しています。 又、当時のお大尽の最右翼である紀伊国屋文左衛門の遊びの様を長唄「紀文大尽」では、 『向かひの茶屋で奈良茂めが雪見酒 今酣じゃと聞いたは真か なかなか 大尽冥利 その雪消して 奈良茂めに鼻をあかす一興な 心得たか 心得ました 幇間の二朱判旨を受け黄金色なす三百両 小判に小粒かきまぜて 黄金な雪がそりゃ降るはと おもてにばら ばら撒き出せば 甘きに集ふ蟻の群 人波どっと押し寄せて こけつまろびつ奪ひ合ふ 塵もとどめぬ白妙の 雪のながめもたちまちに踏みかへされて泥のうみ』なお六段目「吉原の廓」は紀文と遊女 几帳の色模様を描いています。
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