●邦楽に描かれた吉原(二)

【吉原も歌舞伎も悪所なり】


 旗本・御家人達が放蕩に耽り、挙句の果てに刃傷沙汰が絶えず起り、遊興の果てに借財を 初期の江戸 幕府にとって頭の痛い問題があった。それは支配階級であり、社会の規範であるべき大名・旗本の風儀の 乱れであった。女色を巡って大名や作るなど、風儀上無視出来ない事件が多発しており、また、戦国の気風の 残る武家の間にては衆道(男色)が蔓延し、武士同士だけではなく若衆歌舞伎の役者を相手にしての衆道も 盛んになり、これに纏わる喧嘩刃傷沙汰も多発していた。領国に家族を置き単身赴任に近い生活を余儀なく されている多くの武士に取ってその無聊を慰めるのは酒と女であり、屋敷に仲間を集めての酒宴であった。 当然酒席や枕席に侍る女性が必要となり、女歌舞伎役者・遊女・湯女・蔭間達が招かれて淫蕩の限りを 続けていた。
 この対策として打出されたのが、第一弾の遊女屋から出された公許遊廓設立の要望を逆手に取った、 元和3年(1617)の元吉原遊廓の公許であった。これは遊女の外売り(出張販売)の禁止と隠売女の摘発の 責任を吉原に押し付けた事である。
 第二弾としては、寛永6年(1629)の女歌舞伎の禁止であり、第三弾が承応元年(1652)の若衆歌舞伎の 禁止であり、第四弾が明暦3年(1657)の湯女風呂の禁止であった。
 これらは町触の形にての布告であったが、その実態は武家の風儀の粛清に外ならなかった。従って施政者 側から見ると、吉原遊廓も歌舞伎役者も一言に云って「悪所」即ち「世上に悪影響を及ぼす所」との認識に 則った位置にあった。
 歌舞伎と遊里との関係は、その生立ちからして共通の面を持っていたことである。何故ならば歌舞伎役者は 室町時代より「河原の者」として差別化されて来た賎業芸能者の末であり、遊女屋も古くから芸能と肉体とを 商品とする賎業であり、共に社会から蔑視される存在であったことです。
 江戸幕府ではこの両者を表向きには「公許」と称する保護政策の形式をとったが、その実態は社会に 悪影響を及ぼす「悪場所」と決め、この場所より社会に害毒を振り撒かせないために監視できる便利な 体制を定めたに外ならず、身分階層・居住地など様々な社会的制限と蔑視観を加えることにて、社会から 隔離された世界を形作った。以後も両者には様々な制約を加え続けていった。

■歌舞伎と売色
 遊芸者と売色との結び付きは古くからあり、勧進歩き巫女も布教の傍ら客の求めに応じて、 その肉体を商品化していました。室町末期から活動を始めた「念仏踊り」の賎民芸能集団も同じく 芸の傍ら肉体を売り、その実態は遊女と変らぬものであった。
 彼女達が演じる「ややこ踊り(念仏踊りの一種)」が天正年間に京都にて流行し、当時商品生産の 進歩と流通の拡大にて経済的に成長し、実力を蓄積し始めた京都の新興町人衆の好尚に迎えられ、変貌し 京都町人の芸能として育ち始めていた。
 慶長年間(1597〜1614)の始めには、当時の京都の歓楽地とも云える四條河原に様々な芸能が小屋掛けし、 数多くの観客を呼び込んでいた。この中に皆様御存知の出雲大社の散所に属する勧進歩き巫女の阿国が、 ややこ踊りを演じていた。当時世上には他との差別化を図る為に、正統でない異装をして市中を闊歩する 武士達がおり、世間では正常なものより異なるものに傾くとの事にて「かぶく者」と呼んでいました。阿国は 自分の演じる「ややこ踊り」に踊りだけではなく、「かぶく者」が茶屋遊びをする風俗を取り入れ、自らも 男装にて茶屋女に戯れる様を演たり、一座の男性が女装して茶屋女を演じるなど、性倒錯による好色的媚態が 醸し出す舞台を作った。また、能狂言より滑稽味のある劇的要素を取り入れた舞台をも創成し、踊りの面でも 念仏踊りの鉦以外に専門の楽師による鼓・笛の囃子にて小歌を唄い、群れ踊っていた。この阿国の異装にての 舞台は世間の評判を呼び、世間では「かぶきおどり」と呼ぶようになった。この阿国の「かぶきおどり」が 評判を呼ぶや、これを真似て様々な舞踊集団が京都に出現し、各地へ下っていった。 


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