●邦楽に描かれた吉原(一)

【まえがき】


 今回からはチョット趣向を替えて軟らかい話題を取上げて見ることにしました。男なら江戸時代に タイムスリップして、一度は覗いて見たいと想う当時日本最大の歓楽境と言われた「吉原遊廓」 に纏わるお話しです。
 何故取り上げたかと云いますと、歌舞伎や近世邦楽の中に吉原遊廓の風俗・年中行事・遊び・遊女の 日常生活・遊客などに纏わる事柄が多く紹介されておりますし、また江戸文化・芸術等の発信基地でも あった故に、江戸時代の文化・芸術・風俗・芸能などを知る上で吉原の様々な事柄を知らなければ理解 出来ない部分が多分にあり、極論を言いますと吉原遊廓を知らずして江戸を語る事が出来ないからです。 洒落本・滑稽本・川柳などの文芸や落語をはじめとする様々な芸能は、江戸吉原と切り離せない関係 にて彩られておるからです。遊廓の話などと眉を顰める方も居られると思いますが、暫しのご猶予をお 許し下さるようお願い致します。
 江戸第一の歓楽街である吉原は、有徳人や豪商達が遊ぶ社交場であり、その取巻きとして様々な文化人 ・芸術家・芸能者が集い、江戸文化の発信源でありましたので、この遊廓 にて持て囃された風俗・音曲は 直ちに江戸市中にて流行し、全国へと伝播して行きました。また江戸庶民娯楽の一つである歌舞伎は、 歌舞伎狂言や舞踊劇に廓遊びを盛り込んだ演目を多く出しています。それは一生に一度で良 いから 吉原の高級遊女と遊びたいとの願望を抱く庶民層の男性にとって、莫大な費用を要する高根の花の遊びであり、 まさに夢の話であった。願望を持つ庶民層の男性や、話に聞く吉原での御大尽遊びとはどの様なものなのか に興味を抱いている女性達は、舞台でその一端を覗くことにて吉原に遊んでいるかの如き臨場感を持って 見ていました。
 当然の事にて歌舞伎舞踊曲にも吉原の風俗 風習・遊びなどが随所に盛り込まれて作られておりますが、 吉原遊廓が消滅している現在 それを実地に見ることが出来ません。先頃ま で旧吉原の大見世であった 松葉屋にて太夫 道中や初会の儀式をショーとして、その豪華さ を見せていましたが今はやっていません。 一言にて吉原と云いますが、吉原には「元吉原遊廓」と「新吉原遊廓」の二つの時代に分かれます。元吉原の 終焉は明暦3年(1657)ですので、未だ近世邦楽は生まれておらず、歌舞伎舞踊曲として長唄が発生するのが 元禄末期(1703)頃なので、当然これ以降に作られた曲に描かれている吉原風俗風習などの多くは、新吉原 遊廓の姿を映していると見てよいのではないかと思われます。 新吉原自体も時代の経過と社会・経済環境の変化と共に、手順規則を重んじる特権階級を対象とする遊興の 場から次第に変わり、全て安直に事を済ますような庶民化が進み、遊芸者であった高級遊女も遊芸から離れ、 遊芸は男芸者・女芸者と呼ばれる芸能者の専業となっていった。これは偏に「悪貨は良貨を駆逐する」の譬え の如く、客層の庶民化は高尚の遊芸を身に付けた遊女を必要とせず、必然的に遊女の質も低下し、ただただ肉体を 商品化した売春の場に転化して行ったことです。
今回からは今はその面影すら偲ぶ便の無い、男性の遊仙窟であった吉原を近世邦楽を通してそのよすがを 偲ぶ訳ですが、初期の元吉原の地は現在の人形町周辺にあったもので、昼のみの営業形態であった故に、 客種は大名や上級旗本・高級陪臣などが利用する特殊な閉鎖社会で、庶民相手の遊興の場ではなかった。 これに反し新吉原遊廓は、当時江戸郊外とも云える浅草田圃への移転と共に昼夜営業が認められ、所在する 遊女達も上は大名を相手にする高級遊女から、下は長屋の八さん熊さんを相手にする切見世の安女郎まで 幅広い遊女を抱える日本一の遊仙窟とも云われる一大不夜城であった。
 この遊里の豪華絢爛の華やかな様子は、全国に広まり、地方の藩士に取って江戸勤番を命ぜられるのを心待ち にし、定まるや独身・所帯持共に遊び金を工面して下向し、口の悪い江戸人からは遊びを知らない野暮さで 「浅黄裏」と軽蔑されながらも、一生に一度の極楽遊びと、故郷への土産話に非番の日には通い、田舎から 訴訟などで出て来たお百姓さん達が吉原見物と称して格子先をぞめき歩き、八さん熊さんがお女郎買いと 云って慣れ親しんだのはこの新吉原遊廓です。

→次号へ


Topページへ