●日本の伝統音楽〜「語り物」(二十九)

【豊後節系統の浄瑠璃】


■清元節浄瑠璃(豊後系浄瑠璃9)
初代豊前の弟子初代斎宮太夫(延寿斎)の弟子二代目斎宮太夫は、享和二年(1802)に師が亡くなると 家元二代豊前太夫と不和になり、文化八年(1811)絶縁状態にて分派独立して豊後路清海太夫と称し下 阪しました。文化十一年(1814)に新たに清元節を創設し、清元延寿太夫と名乗り中村座に出演し、富本節に 対抗する存在となった。しかし、四十九歳の文政八年(1825)五月芝居出演の帰りに刺殺された。   清元節浄瑠璃は、華麗なる江戸文化の爛熟期である文化文政期に創設された新浄瑠璃故に、派手で 軽妙洒脱なところに特色がありますが、以後の家元が時代に即応した作曲や演奏上の改良が成された為に 曲風の変遷が著しくあることです。常磐津・富本と共に歌舞伎舞踊音楽として発展してきましたが、両者が 三味線を主にした音楽であるのに反し、浄瑠璃(語り)を主体にした音楽故に、三味線は浄瑠璃を引き立た せる為に控えめな演奏をするところにあります。また、両者が舞踊曲を主にしているのに対し、舞踊曲以外に 多くの素浄瑠璃が作られていることも特色として挙げられます。


a.文化十一年〜安政二年(1814〜1855)初代〜二世延寿太夫の時代
創設期の清元は富本節と変らず個人の芸風が差異であり、曲目も富本節より移したものが多かったが、 初代及び二代延寿太夫は美声に加え時流の好みに敏感であったので、その語り口を工夫したり、曲中に 流行唄を加えたりして清元節独自の芸風を作っていた。また松江藩主松平治郷(不味公)の強力な庇護を 受けたことは流派にとって絶大だった。
文化末期から天保年間(1828〜43)に掛けての歌舞伎舞踊は「変化物」が全盛期であり、それまでの 舞踊の伴奏曲は長唄が主であったが、舞踊に変化を持たせる為に豊後節浄瑠璃との掛合曲が作られるよう になった。その多くは市井の様々な風俗に題材を得たもので、軽妙洒脱な面を持つ清元節が最適であった。 初代・二世延寿太夫の立三味線方として清沢万吉(後初代斉兵衛)と言う優れた作曲者を得て現在でも 演奏される様々な名曲を残しています。
  • 清沢万吉(後に初代斉兵衛)作曲の曲・・・ 「今様須磨」「道行思案余(お半)」「鳥羽絵」「玉兎」「嫁菜摘」「山姥」「傀儡師」「お祭」(二世桜田治助)、 「權八」「女太夫」(福森久助)、 「保名」「お染」(四世鶴屋南北)、 「文売」(本屋宗七)、「茶筅売」 (二世松井由輔)、 「子守」「山帰り」(増山金八)、「累」「女雲助」「土佐絵」「文屋」「喜撰」(三世松井幸三)、 「吉原雀」「お蔭参り」「鳥刺」(三枡屋二三治)、「三社祭」「玉屋」(二世瀬川如皐)、 「船頭」「座頭」(藤井源八)
  • 二世斉兵衛作曲・・・ 「四季三葉草」「神田祭」(三枡屋二三治)
  • 川口直作曲・・・ 「北州」(太田南畝)、「梅の栄」(毛利元義)
  • 清元千歳作曲・・・ 「女車引」(三世桜田治助)
b.弘化〜明治 四世延寿・五世延寿の時代
 四世延寿太夫は歌舞伎狂言作者の二世河竹新七(後の黙阿弥)と提携して数々の黙阿弥作の浄瑠璃を語り、 三味線方二世梅吉・お葉などが作曲において名作を生み出しています。また、この時代に余所事浄瑠璃と 言うものが生まれました。是は語っている浄瑠璃の歌詞が、上演中の狂言の内容とは関係ないもので、 余所で語っている浄瑠璃として扱い、この浄瑠璃に合わせて役者が仕種をするというものです。 「夕立」「雁金」「筆幸」が是にあたります。
  • 太兵衛(前二世延寿太夫)作曲・・・ 「旅奴」「明烏」(三世桜田治助)
  • 二世斉兵衛作曲・・・ 「白玉」(河竹黙阿弥)
  • 清元順三作曲・・・ 「流星」「夕立」(河竹黙阿弥)
  • 清元お葉または徳兵衛作曲・・・「十六夜」(河竹黙阿弥)
  • 二世梅吉作曲・・・「雁金」「三千歳」「曽我菊」(黙阿弥)、「隅田川」(条野採菊)、 「青海波」(永井素岳)、「四君子」(金倉田徳之助)
  • 清元順三郎作曲 ・・・「筆幸」(黙阿弥)
豊後節浄瑠璃を基とする新内・宮薗節浄瑠璃および豊後節浄瑠璃禁止後に創設された常磐津節、 常磐津節を祖とした富本節・清元節についてその特徴と進化の過程を述べて来ましたが、 今回をもって「語り物」を終わらせて頂きます。


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