●日本の伝統音楽〜「語り物」(二)

【浄瑠璃の名前の由来(2)】

 やがて、この語り物は都にも伝播し節付けされ、盲目琵琶法師の語り物として琵琶を伴奏にした 「語り物芸」となり、『浄瑠璃』と呼ばれるようになった。これ以降、琵琶法師による平曲以外の 「語り物」は全て「浄瑠璃」の名によって呼ばれ、後には当道座に所属する琵琶法師達もこの物語を 語るようになった。
 この地方の語り物である「浄瑠璃御前物語」を都の上流公卿などの貴紳階層に好まれた事は、 公卿三條實隆の「實隆公記」文明七年(1475)の紙脊文書に「我らはさらはしゃうるり御せん・ したとのなとを申候はん」と記述があり、また、連歌師柴屋軒宗長の「宗長手記」享禄四年(1531) 八月十五日夜の条に小田原の宿にて『小座頭あるに、浄瑠璃をうたはせ、興じて一盃にをよぶ』との 記述がある事から明かです。
 この「浄瑠璃姫物語」が、社寺(鳳来寺)の信仰を広めるために説経と同じ手法にて作られ、 賎しい歩き巫女や遊女によって語り継がれて来ましたが、社寺に纏わる霊験譚を主体とする説経の 多くが、賎民芸となったのとは異なり賎民芸能とはならず、琵琶法師の芸能として継承され貴紳階級に 親しまれたのは異例なことであった。
 又、この「浄瑠璃姫物語」は御伽草子になり、『浄瑠璃姫十二段草子』の名の元に婦女子に広く 読まれ全国的に広まって行きました。

【浄瑠璃の進化とその系譜】

 琵琶による語り物「浄瑠璃姫物語」に端を発した「浄瑠璃」が、三味線の渡来にて三味線を伴奏楽器 とする音楽となり、やがて様々な語り口を持つ浄瑠璃を生みだして行きました。
 浄瑠璃物三味線音楽の基は、日向国出身の薩摩浄見が元亀三年(1572)に上京して水無瀬流の琵琶を 学び、天正三年七月に堺に移り薩摩一流を創設したことに始まったとされています。後に息子の浄慶が 琵琶と操り人形とを結びつけて演じることを考え、攝津西宮の傀儡師(えびすかき・くぐつ廻し)に 操り人形(土偶)を習い琵琶の伴奏にて演じるようにした。また浄慶子息浄雲(虎屋次郎右衛門・薩摩太夫) は琵琶に厭き足らず、沢住検校に付き当時渡来した三絃を習っていた。やがて浄雲は室町中期から大衆に 親しまれて来た琵琶による語り物「浄瑠璃姫十二段草子」に薩摩一流の曲節を附し、琵琶に替えて三味線を 沢住検校に弾かせ自ら語り、これを称して「薩摩浄瑠璃」と唱え、ここに三味線音楽としての「浄瑠璃」が 誕生しました。
 浄雲は堺にて薩摩浄瑠璃を広める傍ら、子息薩摩太夫・杉山丹後掾・江戸長門掾・薩摩左内・ 虎屋源太夫・桜井丹波掾(和泉太夫・金平浄瑠璃)など後に様々な流派の祖となる数多の優れた弟子を 育成していました。
 薩摩浄瑠璃の江戸進出は浄雲の弟子杉山丹後掾が元和元年(1615)に下り、操り芝居を建てて興行し、 薩摩浄瑠璃の宣伝に努めていた。師匠の浄雲は遅れること二年にて江戸に下り、当時の歓楽街であった 中橋広小路(現在の中央区京橋)に薩摩浄瑠璃による操り芝居小屋「薩摩座」を作り、新たに段物浄瑠璃を 作り語るようになり、浄瑠璃普及に努めていたが、それまで土偶人形を木偶人形に換えたことを、幕府に 驕りの所業と見なされ、寛永十二年(1635)操り座は停止された。後に浄雲の従兄弟力弥が二代目浄雲を 継ぎ慶安四年(1651)に堺町に操り座〔薩摩座〕を再興した。
 浄瑠璃の系譜などによりますと、浄瑠璃は上方と江戸に分けられておりますが、その元は先に述べた 「薩摩浄雲」であり、その弟子が江戸・京都にて自己の芸風にて独立して様々な流派を作り、競演しており、 また、その弟子筋が様々に分派し、やがて淘汰されていったことがわかります。

【上方浄瑠璃(古浄瑠璃)《 京 都 》】

 上方での人形浄瑠璃上演は「御湯殿上日記」の慶長十九年(1614)の条に『京都御所にて夷かきにより 「阿弥陀胸切」と云う浄瑠璃を演じる』とあるのが資料として始めであると云われています。 [群書類従所収・御湯殿上日記]
 上方にて浄瑠璃が盛んになったのは先ず京都からで、堺から浄雲弟子虎屋源太夫弟子の虎屋喜太夫 (上総掾)と伊勢島宮内が進出したことに始まります。源太夫には両者以外に伊藤出羽掾・山本角太夫 (土佐掾)・井上播磨掾など後に上方浄瑠璃に名を成した錚々たる弟子がおります。  承応〜寛文年間(1652〜72)頃には薩摩浄雲の弟子虎屋左内(左内節)と、浄雲弟子虎屋源太夫の 弟子で江戸より戻った伊勢島宮内(伊勢島節)が活躍して居り、しばしば大阪に出張って上演し、 また源太夫の弟子虎屋喜太夫(上総少掾)も金平浄瑠璃風な語りにて評判を得ていました。  延宝〜天和年間(1673〜1784)には伊勢島宮内の弟子宇治加賀掾が師の名代(興行権)を譲られ四條河原に 小屋を創設した。彼の加賀節は大阪にて当時流行の井上播磨掾の播磨節を取り入れて表とし、それに謡曲・幸若の 曲節や小歌などを加えて細やかな曲節とした語り口であった。又、彼は近松門左衛門の浄瑠璃作品を数多く取上げ、 近松の浄瑠璃作家としての道を開かせた人物として知られています。また同じ頃に虎屋源太夫の弟子山本 角太夫(土佐掾)が大阪より転じ、四條河原に小屋を揚げ、角太夫節(土佐節)と呼ばれる哀調のある憂い 節にて、加賀掾と人気を二分していた。  正徳年間(1711〜15)に京四條河原にて櫓を上げて興行していた様々な芸能を纏めた『京四條河原諸名 代改帳(正徳三年巳十二月、四條河原歌舞伎・物真似・舞・からくり・浄瑠璃・説経名代改帳)』 [三一書房刊・日本庶民文化史料集成第六巻 歌舞伎 所載]によると、京四條河原の浄瑠璃及び からくりの座は、万治元年閏十二月朔日に口宣を戴いた「からくり」の竹田出雲、浄瑠璃としては慶長十八年 河内掾口宣の宇治河内の系譜、寛永六年に上総掾を受領した虎屋喜太夫の系譜、寛永九年若狭掾口宣の宇治 若狭の系譜、延宝六年薩摩掾口宣の富松薩摩の系譜、山城掾、外記七郎兵衛、門十郎、伊勢嶋佐太夫、和泉、 宇治嘉太夫、山本土佐、越後の浄瑠璃座が有り、からくり浄瑠璃として山本飛騨掾があったと 記載されています。   

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