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【豊後節系統の浄瑠璃】 ■豊後節浄瑠璃―1 今回から豊後節系統の浄瑠璃を取り上げます。この豊後節浄瑠璃と云いますのは、 享保末期に江戸に進出して爆発的な人気を博しながらも、淫靡を理由にして僅か六年にて 幕府により禁止の命を受け消滅した浄瑠璃ですが、禁止後も元文から延享年間に掛けて 豊後節浄瑠璃語りの風俗・風体などが江戸人に好まれ、風俗・社会生活など様々な面で 社会に影響を与えています。ただ其の門葉からは新内節・宮薗節・常磐津節・富本節・ 清元節などの浄瑠璃が発生し、現在でも皆様に親しまれています。では豊後節とはどの ような浄瑠璃かと云いますと、宮古路豊後掾が創設した上方浄瑠璃の一派です。「声曲類纂」 に拠れば豊後掾は 『都一中が門人にして、始は都国太夫半中と号し、後に宮古路国太夫と改め、 一中節を変化せしめ一流を語り出し、享保三年戌十一月大坂竹本座に於て始て芝居を勤む。此 時博多小女郎浪枕といふをかたれり。夫よりこのかた国太夫節とて諸国に聞ゆ。』と記されています。 京都にて初代都一中に弟子入りし、その後一中門下の高弟半中として名を高め、一中節の 作品もあると言われていますが、やがて一中節より離れ宮古路国太夫を名乗り、一中節を変化させた 語り口にて世に国太夫節と言われる芸風を作り上げました。享保三年(1718)十一月に大坂竹本座に 始めて出勤して、「博多小女郎浪枕」を語り、その語り口が世に広がったと言われています。 「江戸節根元記]には『京都に宮古路国太夫節、芝居にて所作に能合し節にて今に不捨はやりし節なり』 と記され、彼の語る国太夫節が歌舞伎芝居の所作に合う語り口であった故に流行ったと云っています。 国太夫が京都の新興花柳街であった祇園新地に基盤を置き活躍していたことは、井原敏郎著「歌舞伎年表」 の享保八年五月の項に、 『祇園新地清本町、宮古路国太夫、四月祇園町男女三十八人、異形の装にて囃しながら 参宮の科により、五月二十六日過料五貫文、建仁寺西門前之上町大和井常太夫も同上五 貫文。』の記述があるのと、本島知辰著「月見堂見聞集」 [続日本随筆大成別巻2〜4]に、 『享保八年(1723)五月二十六日に、過料上納により祇園社参宮の出入を許される。 鳥目五貫文 祇園新地清本町宮古路国太夫』によりわかります。また、「月見堂見聞集」九年後の享保十七(1732)年五月の項に 『此度島原遊女町困窮に付、西の方入口を開き候へ共、女に見物出入無之故、又々御願 申上候て、宮古路豊後を雇、揚屋町の上の町に芝居を立て、東西の入口にて、女には 一人づつに、銭十二文づつ取りて、遊女町不残見物仕候共勝手次第に罷成候、傾城共 は揚られ候者見物に越候よし』とあり、この項では国太夫を改め宮古路豊後と記していますことから、この間に豊後掾を 受領していたことが判ります。 享保十八年(1733)、享保の改革にて奢侈禁止を強化する幕府の意向に反し、開放政策を 執り活況を呈する尾張藩主徳川宗春の御膝元名古屋に下った宮古路国太夫は操芝居を興行 したが、在名古屋中に金村屋おさんと伊八との心中未遂事件に遭遇し、心中物上演禁止をも 顧みず、この事件を扱った人形浄瑠璃芝居「睦月連理玉椿」を作り、翌享保十九年(1734) 正月に名古屋にて上演し大評判をとりました。享保八年二月に出された「心中法度」にて 『絵草子、歌舞伎狂言に心中事件をつずるを禁止』されて以後、歌舞伎・浄瑠璃では既存 作品の上演や新作の上演は行われておらず、法度の実施が緩んだ故か、吉宗に反発する 宗春の名古屋故か、禁止後初の上演でした。 名古屋にて成功を収めた宮古路豊後掾は、同年(1734)に江戸に進出し、七月中村座に 出勤して名古屋にて成功した「睦月連理玉椿」(おさん伊八)を丸本歌舞伎化した狂言の 地の浄瑠璃を勤め、一気に豊後節瑠璃の愛好者を掴みました。何故このように江戸にて 爆発的に人気を博したかと云いますと、江戸進出に際し知人の鳥羽屋三右衛門の助言により、 豊後節本来の語り口を、江戸人好みの語り口に替えたと故と「月堂見聞集」では記しています。 享保二十年に江戸の下向した豊後節が江戸に定着し流行した様を、津村淙庵著「譚海」 [日本庶民生活史料集成第八巻所載]では、 『半中は一中の弟子也、一中ぶしは、はものばかりを語りたりしが、半中は一流をかた り出し、国太夫といふて、はものの外に段物を語りて、都古路豊後掾と受領して、 ふき屋町河岸へやぐらをあげ、芝居を建たり、夫より江戸にて豊後ぶしと云事、 さかんにはやりて、又其弟子さまざま分れたり』と記しています。では何故豊後節が江戸にて流行したかと言いますと、宮古路豊後掾の語った 曲節は、その祖母・母親とも云える文弥節・一中節の特長である泣き節を基に、更に哀愁を 込め、艶を持たせた柔艶な節調であったのが、男女の情事・心中などを語るのにうってつけで あった故に、江戸人の心に深く訴えたことが、短日の内に愛好者を増やした理由だと云われ ています。
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