●日本の伝統音楽〜「語り物」(十七)

【義太夫節浄瑠璃(10)】


■娘義太夫の出現 V
 この逮捕に追い討ちを掛ける形で次のような様々な禁止令が出され、
「天保十三年二月十四日より寄場・講釈場御禁制なり、江戸二百十三軒之内十五軒 御免ニ成、三十五年以前之寄せは残し、三十四年以前ハ取潰ス也。」
と十五軒以外の寄席の廃止。追って三月十五日町触にては
『女浄瑠璃師匠の男子への稽古再度禁止。金銭による芸未熟者への名取名授与自粛と 名披露の祝物配布の禁止』
を告示。また五月二十一日町触にて
『寺社境内寄場を、浅草観音境内一ケ処、其外芝明神・三田神宮寺・市ヶ谷八幡・ 牛込赤城明神・増上寺外境内幸稲荷・飯田橋世継稲荷の都合九ヶ所に限定し、 演目も神道講釈或ハ心学、軍書講釈・昔咄等に限り、鳴物使用を禁止。寄席場に 女性従業員を置くを禁止』 [近世庶民生活史料第二巻所載・藤岡屋日記]
しかし、庶民に様々な禁止を強いて人気の悪かった天保の改革も、翌十四年にその主務者 である水野忠邦が失脚して改革は挫折したが、風俗や市中取締などの改革路線は受け 継がれて行った。
 しかし、弘化元年(1844)十二月になると改革路線は風俗営業の面から多少緩み、 寄席開業の規制が解かれ、一挙に市中には寄席が増加し、翌年には七百軒になったと 云いますが、その実情は翌二年五月四日の藤岡屋日記の記述に
『外神田新地山本町代地、伊勢本と言ヘる寄場、御免ヨリ新キニ出来致し、落し噺し、 講釈、其外色ヘ出候共、一向ニ入無之処、五月始の頃より表を格子作りニ致し、野沢 佐野八と言表札を懸、浄瑠璃稽古さらひと言、挑灯を出し、素人太夫出て糸代三十六 文宛ニて、大入大繁昌なり』
と、義太夫浄瑠璃の上演無くしては経営も成り立たず、専門の浄瑠璃語りの出演を憚り、 素人大夫を出演させて凌いでいる有様でした。
 寄席解禁は行われたが、女浄瑠璃の出演は解禁されず、男浄瑠璃太夫も三味線を 用いず、扇拍子で音頭を取って語るようになったと言われています。
[嘉永六年(1853)版「江戸すなこ細撰記」日本庶民文化史料集成第八巻 寄席・見世物]
 江戸庶民に愛された女浄瑠璃は、その後も禁止を解かれることも無く、幕府崩壊まで 解禁の対象から外されていました。唯、寄席には出なくても非合法的な葦簾張りなどに 出演し、細々とその命脈を継承していましたが、明治二十年代に入り一大ブームが起き、 大正時代まで続いていました。



←前号へ ↑最初へ →次号へ


Topページへ