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【義太夫節浄瑠璃(8)】 ■娘義太夫の出現 U 「義太夫執心録」[日本庶民文化史料集成第七巻所載]の記述によれば、娘義太夫 の元祖として「芝枡おでん」を上げており、宝暦の頃よりその芸が評判になり、座敷 浄瑠璃語りとして屋敷方にしばしば厚遇にて招かれた様子が書かれており、また、同書 には明和から天明年間(1764〜1788)に娘浄瑠璃にて評判を得た者の評判記を載せており、 おすて(宝暦末)・伊勢喜(明和末)・芝美代(明和末)・文匂(天明初)・ 万喜重(安永末)・二代目芝枡・八重太などの名前があります。 彼女達が全て屋敷方のみにて生計を立てて居たかと云いますと、文匂の批評に 『文匂 元は西久仕立屋之娘。住大夫(初代)弟子也。天明の始、師匠文蔵の一字 をもらひ文匂。美しき振袖とハおもハれぬ語りに、夫より種々評判よく、母親と同道 にて大坂へ登る。住大夫古人の後、文匂寄せ場へ出勤は師匠の心にもどく道理と、 心有る人中は笑って損の行ぬ事とて、(略)おそ巻の唐からし、ひりひりと実入も 有まじとお気の毒にぞんし参らせ候。』とあり、また二代目芝枡の項には 『芝枡二代目おてつ 山城町鍛冶屋之娘故、かじ鉄とも云う。此人師匠の芝枡と一所に 度々寄せも出られし、…』とあり、安永・天明年間には既に江戸の寄席には女浄瑠璃が出演し、それなりの人気を 得ていた事が判ります。しかし、この頃の娘浄瑠璃の本筋は屋敷方にて演奏する 「座敷浄瑠璃」にして、先述した文匂の批評にも有るように 『寄せ場出勤は師匠の心にもどく道理と、心有る人中は笑って損の行ぬ事とて・…』と娘浄瑠璃の寄席出演には批判の目を向けています。 元祖芝枡・二代目芝枡・文匂などの人気者が寄席に進出すると、他の女浄瑠璃語りも 次第に座視出来ず、寄席に進出し、寛政年間には寄席出し物の主力に成って行き、人気者の 終演後の贔屓筋との交歓が、女浄瑠璃語りを対象とした買春・売春行為へと発展し、何時 しか買春者からの話が世上に流れ、町奉行所の風俗取締の網に掛かり、前号にて紹介した 文化二年の町触にて寄席への出演禁止の措置が取られました。 しかし、禁止の二十六年後になる天保二年(1831)二月・同年十月にも、上記の触書と同じ ものが出されていることから見て、庶民の女浄瑠璃に対する根強い支持と、禁止当座だけ 神妙に対処し、緩めば元に戻る取締の手の内を熟知する興行主の渋とさが覗えます。 文化十年頃になると女浄瑠璃の全面禁止にも拘らず、竹本染之助と云う十二歳の少女が、 老母の養育と病気看病の費用を得るためとの理由にて、子供浄瑠璃の寄席出演を町奉行に 陳情、奉行所は親孝行に免じて特別に許可しました。当時の随筆曳尾庵著「我衣」では 『竹染之介といふもの十二歳にて出語し、歴々の太夫も及ばず大入』と、その人気の様を記しています。しかし、染之助の人気に従い、取締の緩みを見て 取った女浄瑠璃語り達も次第に寄席に登場し、またまた女浄瑠璃は復活し流行して 行きました。この再三の禁止を度外視した女浄瑠璃の盛行は、反面義太夫の普及と 愛好者の増加を来たしていました。当時の熱狂的な愛好者の様を、随筆「わすれのこり」 [続燕石十種第二巻所載]では、 『その頃、女の義太夫語りが流行して、寄席の七、八割は女義太夫で、 昔ばなし、講釈などはお触のごとく来る者がいない。ひいき連中が連名を 記して贈ったびらが溢れかえっている。終演後は贔屓の女語り毎に巴連・竹染連と 書いた提灯を連ねた「送り連」が、宿所まで送って行く。中でも器量のよく、芸の 上手く、贔屓の多いのは巴女・巴童・巴勢喜・力勝・金之助・寿賀子・染之助・氏江。 その外にも沢山あるが数え切れない』と書いています。
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